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| 26 日鉱記念館を見学して思うこと | 2007/5/15 by Takashi |
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日立RCの職場見学として日鉱記念館を以前2〜3回訪れた事はあるが、今回のコースは初めてであり大変参考になりました。職業奉仕委員会としての職場見学は、その企業がどのような職業倫理を弁えて操業しているかを視察することが目的です。 まず考えられる事は排水の処理であるが、これは尋ねてみたら立派な処理施設があり排水は飲料水程度に浄化して放流しているとの事で問題はありません。 煙害については、大煙突が途中で折れてはいるが、現在銅の精錬は行っていないので亜硫酸ガスの放出は無く、公害は無いようです。 然し、明治末期から大正にかけて日立鉱山が直面した最大の難問は大雄院精錬所から排出される亜硫酸ガスによる公害で、重大な社会問題になりました。 放出ガスは山林や田畑を這い回り、明治44年には農作物被害は2町10ヶ村、山林は3町18ヶ村に及び、常陸太田市の徳川家の墓所である瑞竜山や光圀公の隠居所跡の西山荘の風致林まで被害を受けたと言います。 地元住民の鉱山に対する不満や怒りは高まる一方でした。明治44年5月精錬所から神峰山頂に至る1600mの煙道を作り、200馬力の送風機で煙を薄めて拡散させたが効果が無かったので煙害補償金も20万円を超し、総売上金500万円の4%に達したと言われています。 この時、久原房之助が出したアイデアは奇抜な大煙突の建設であるが、煙突を高くすれば反って公害が広範囲に及ぶと言う反対意見が強かったが、久原は一試験台として建設するのだと言って建設に踏み切りました。 大正3年3月、工作課の設計で、高さ155.7m、鉄筋コンクリート製の煙突工事が始まりました。延べ36.840人の労務者と総工費152.218円を投じたこの煙突は、当時欧米の技術者の指導を受けていたのに引き換え、凡て日立鉱山の技術で行われました。 大正4年3月1日、待望の火入れが行われ、多数の関係者が見守る中、大煙突の先から煙がもうもうと立ち上り空中に消えた。一同は飛び上がって喜び、涙をこぼしながら抱き合って小躍りしたと言います。 この大煙突で日立鉱山の最悪の危機は救われました。折から第一次世界大戦が始まって国産銅の需要が急増し、日立鉱山は嘗て無い好況を迎えたと言います。 企業の公害は最も職業倫理に反するもので、死力を尽くして絶滅しなければなりません。この事例はそれを示したものです。 |
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